2006年08月23日
山田かまち
一度は行ってみたい美術館・・・ 「山田かまち水彩デッサン美術館」へ行って来ました。10年程前になりますが、TVの番組で彼を紹介され以後ずっと気になっていたのですが、ようやくその夢も実現しました(笑)。

高崎市の彼の母校「高崎高校」の正面に立てられた小さな美術館・・・でも、わずか17歳で駆け抜けていった彼のすべて凝縮されていました。
私が14~5歳の頃はこんなに深く物事を考えていただろうか?こんなに、激しく生きていただろうか?
彼の作品、略歴を見ると、17歳とは信じられないほどの人生の濃さを感じます・・・時間と空間を引っかき混ぜて生きていたと言うのか・・・健常者には到底感じられない何かをいつも見ていたような感じがします。
もしかしたら誰もが見・聞き・触れている事に敏感に感じ取っているのかもしれません・・・
彼の作品には私たち大人達には到底感じる事の出来ない潔癖さ・純粋さが存在し、しかも強烈にうったえかけて来るのです。
生きると言う事がどういうことなのか?改めて感じさせてくれるこの「ミニミュージアム」お勧めのスポットです。

彼の作品集「ポケット」の後書き「ご両親」の言葉です。 ~抜粋~
---------------------------------------------------
~前略~
かまちは幼い暗から絵や文を書くことが好きでした。一寸人と変わったところがあって、熱中すると止まらずにハラハラさせられる事がありました。
まだ小学校にもあがらない四~五歳の頃、バス停近くの魚屋さんで、氷水の中で、大きな美しく輝くブリを見て、どうしても買ってくれと地団太を踏んで泣いた事がありました。やっと一匹のサバで我慢させて家に帰ると、そのサバの絵を何回も何回も描き、今度は切らないで煮てくれと言い、食べた後に、その魚の骨の絵をまた何回も何回も描くのでした。
小学校一年生の時には、時間さえあれば絵を描き、紙をもらいに行くので、先生から特別に黒板を与えられた事もありました。毎日毎日、何枚もの怪獣の絵を描いて学校に持って行き、友達に配ったりした事もありました。
その他、切手を集めたり、文通をしたり、クイズや懸賞に応募したり、天体望遠鏡を覗いたり、音楽を聴いたり、毎日が忙しくて楽しくてどうにもならないようでした。
「ぼくには二四時間では足りないよ」というのが口癖でした。
かまちの絵や詩には葛藤があります。小学校三年生の時の動物画のように、はじめはあるがままの自然や思うがままの空想の世界を自由に描いていたのですが、中学校二年生の終わりの頃から、何か、ぶつけるように自分の意思を表現しょうとしはじめたのがわかります。
中学時代の日記に「僕は今まで、人の言う事をよく聞きすぎた。物事を簡単に信じ込みすぎた」という意味の事が書いてあります。かまちはこの頃から、手探りで彷径いはじめ、ビートルズやエレキの世界に近づいて行ったのだと思います。
それは丁度高校入試の準備の時であり、祖母が癌で倒れた時期でもありました。私たちは、かまちの事がよくわからなくなってきました。
祖母の病気が癌である事を告げた時、かまちは大粒の涙をこぼしたまま二階に上がってしまいましたが、祖母の病院にはあまり行きたがりませんでした。祖母が亡くなった時には涙を見せませんでした。しかし、今ノートを見ると、かまちとわかる男の泣き顔が、「棺にすがる女」という絵と共に描かれています。
~中略~
そして何よりも心強い事は、この美術館を訪れて下さる多くの方々が、かまちの絵や詩から何かを受け取って下さって、前向きの姿勢で感動の言葉を書き記して行って下さっている事です。
~中略~
親よりもずっと大きくなってしまったかまちを見上げるような思いで、今は時々「山田かまち水彩デッサン美術館」を訪れています。
どうか、かまちの絵や詩が末永く多くの人々の鑑賞に耐え、世の人々のお役に立つ事が出来るようにと祈りつつ、言葉整いませんがお礼の言葉とさせていただきます。

高崎市の彼の母校「高崎高校」の正面に立てられた小さな美術館・・・でも、わずか17歳で駆け抜けていった彼のすべて凝縮されていました。
私が14~5歳の頃はこんなに深く物事を考えていただろうか?こんなに、激しく生きていただろうか?
彼の作品、略歴を見ると、17歳とは信じられないほどの人生の濃さを感じます・・・時間と空間を引っかき混ぜて生きていたと言うのか・・・健常者には到底感じられない何かをいつも見ていたような感じがします。
もしかしたら誰もが見・聞き・触れている事に敏感に感じ取っているのかもしれません・・・
彼の作品には私たち大人達には到底感じる事の出来ない潔癖さ・純粋さが存在し、しかも強烈にうったえかけて来るのです。
生きると言う事がどういうことなのか?改めて感じさせてくれるこの「ミニミュージアム」お勧めのスポットです。

彼の作品集「ポケット」の後書き「ご両親」の言葉です。 ~抜粋~
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~前略~
かまちは幼い暗から絵や文を書くことが好きでした。一寸人と変わったところがあって、熱中すると止まらずにハラハラさせられる事がありました。
まだ小学校にもあがらない四~五歳の頃、バス停近くの魚屋さんで、氷水の中で、大きな美しく輝くブリを見て、どうしても買ってくれと地団太を踏んで泣いた事がありました。やっと一匹のサバで我慢させて家に帰ると、そのサバの絵を何回も何回も描き、今度は切らないで煮てくれと言い、食べた後に、その魚の骨の絵をまた何回も何回も描くのでした。
小学校一年生の時には、時間さえあれば絵を描き、紙をもらいに行くので、先生から特別に黒板を与えられた事もありました。毎日毎日、何枚もの怪獣の絵を描いて学校に持って行き、友達に配ったりした事もありました。
その他、切手を集めたり、文通をしたり、クイズや懸賞に応募したり、天体望遠鏡を覗いたり、音楽を聴いたり、毎日が忙しくて楽しくてどうにもならないようでした。
「ぼくには二四時間では足りないよ」というのが口癖でした。
かまちの絵や詩には葛藤があります。小学校三年生の時の動物画のように、はじめはあるがままの自然や思うがままの空想の世界を自由に描いていたのですが、中学校二年生の終わりの頃から、何か、ぶつけるように自分の意思を表現しょうとしはじめたのがわかります。
中学時代の日記に「僕は今まで、人の言う事をよく聞きすぎた。物事を簡単に信じ込みすぎた」という意味の事が書いてあります。かまちはこの頃から、手探りで彷径いはじめ、ビートルズやエレキの世界に近づいて行ったのだと思います。
それは丁度高校入試の準備の時であり、祖母が癌で倒れた時期でもありました。私たちは、かまちの事がよくわからなくなってきました。
祖母の病気が癌である事を告げた時、かまちは大粒の涙をこぼしたまま二階に上がってしまいましたが、祖母の病院にはあまり行きたがりませんでした。祖母が亡くなった時には涙を見せませんでした。しかし、今ノートを見ると、かまちとわかる男の泣き顔が、「棺にすがる女」という絵と共に描かれています。
~中略~
そして何よりも心強い事は、この美術館を訪れて下さる多くの方々が、かまちの絵や詩から何かを受け取って下さって、前向きの姿勢で感動の言葉を書き記して行って下さっている事です。
~中略~
親よりもずっと大きくなってしまったかまちを見上げるような思いで、今は時々「山田かまち水彩デッサン美術館」を訪れています。
どうか、かまちの絵や詩が末永く多くの人々の鑑賞に耐え、世の人々のお役に立つ事が出来るようにと祈りつつ、言葉整いませんがお礼の言葉とさせていただきます。
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昨日の渡辺茂夫に引き続き、今日は夭折の天才芸術家、山田かまちを紹介します。
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山田かまち(やまだ かまち)
昭和35年群馬県高崎市生まれ。
幼少時より、人並み外れた観察力と...
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山田かまち(やまだ かまち)
昭和35年群馬県高崎市生まれ。
幼少時より、人並み外れた観察力と...
17歳のポケット・15歳のポケット・10歳のポケット 山田かまち(集英社文庫)【Sasaki Takanori Online】at 2006年09月11日 12:41



